昭和42年06月16日 朝の御理解
好きなものの前には目がない、というようなことを申します。ね。好きなものの前には目がない。と言う事は、好きなものの前には、もう、分別も、見境もなくなると言う事なんです。惚れすぎは知恵もなくなる、思案も尽きると言う事なのです。これは、人だけのことではありません。もの、食べ物一切そうなんですよね。甘いものの、本当に好きなものの前に、甘いものを出したら、いわゆる甘いものには目がない。
目がないと言う事は、もう甘いものの前には、もう見境がつかなくなってくる。ね。もうほんとになんと申しますか、その頂き方一つでももうむさぶるように頂く。あれだけ行儀の良い人がもう甘いものの前では、もう行儀もなんもあったもんじゃない。酒の好きでたまらん人の前には、それこそ普通はぶすっとしておる人でも、ニコッともう笑うその笑顔というものは何ともいえんような笑顔を作るのです。ね。
目を細めてね。それにまあいうなら飛びついて行くわけなんです。神様は決してその、好きなものを作るなとか好きなものを食べるなとか、好きな事をしてはならんと仰るのじゃないのです。ね。けどもそこんところを一つ見境がつくだけのゆとり、行儀をくずさんですむだけの慎みと言った様なものをですね、信心によって鍛えていかなければいけない。私は思うんですけれども、中々迂闊にしておりますから失敗を致します。
昨日は戸番にも掲示してございましたように、古賀さんところのアパートが出来ましたのが完成致しましたので、それの報告祭なり感謝祭が行われました。私と文男先生で奉仕しました。もう本当に広いところじゃないのですけれども、あの狭いところにどうしてまあ、こんなにかっこ良いアパートが出来たやろかと感心するくらいに、おかげを受けておるんだなあと、しかも、何ですかねえ、
昨日初めてお参りされた方が色々お話をしておりました。丁度もうお昼下がりましたから、私の控えでお茶でも戴きながらお話をしている内に、私の机の上にこの頃のお祭りの時の写真がカラーで出来て来ておりました。それをあのその方がちょっと見られてから、あの是はあのつき子さん、古賀さんの奥さんはつき子さんと言うんですよね。元々北野の方でしかも、あのう古賀さんのおられる所の近所におられるらしいんですよね。
それも近所におられることを知られなかった。初めてお参りをさせて頂いてから、あっちはもう本当にそのう、歳は随分違いますけれども、北野におる時分に一緒に踊りなんかを習ったことがある人で、大変心やすうしとると言ったような話からでございました。その方の話を聞きました。勿論あのここにお参りしてくる時にも、そうでございましたけれども、非常に一時はもう親戚の者も、まあお付き合いをせんくらいに。
まぁあの人達は難儀をしておった。あらぁあの人達がこのアパート建てるくらいに、そげん儲け出してあるですかと言う様な話からでございましたが、段々おかげを頂かせていただきましてですねえ。ご縁を頂かせて頂いてから段々もう、一つひとつ物が成就していくわけなんですよねえ。もうこの人はその特に朝参りなんかが出来よるという事はございませんけれども、これっこそ毎日お参りされるんです古賀さんは。ね。
そしてそのおかげを受けて、まあ家も自分のものになりゃアパートも、今度はまあ造らせて頂けるというようなお繰り合わせを頂いて、もうそれがもうこんなところに、どうしてこんな家が建つじゃろかというように、ま勝手よう使い勝手よう出けております。一部屋一部屋がしかもなんと言うですか、日当たりも良かればあぁ風通しも良いというようにその、かっこよう出来ておる。
そういうおかげを受けた、いわば謝恩祭でもありますし、みんなも菊栄会のかた二、三の方ですから、まあ菊栄会の連中が全部来ておりました。それでもうおかげ頂きましたが、まそれまでは有り難いお祭りでよかったんですけれどもね、そのう私はちょっとその、今日はああた方を知っておられる方が来られて、見えましてね。こういうような話を聞いたんですよと。
ここの奥さんはなかなか踊りが出来られて、という話をしたもんですから、みんなが、そんなら踊りいっちょ見せてもらわんならんというような事でですね、わざわざその、レコード、蓄音機をどっからか借りて見えましてから、それから、ま、あの、踊りの披露をされました。なかなか素人にしては垢抜けした踊りを踊られます。若い娘時代から踊っておられますからですね。
ですからついついそのお酒のほうも過ぎるという結果になってしまったんですね。根が、こっちが好きなもんですから。まあとにかく好きなものを腹いっぱい頂いたという訳なんです。夕べはさほどにも感じなかったんですけれどもどっこい、今朝起きてみてから気分の悪いことですねえ。胃の具合が悪い。何とはなしに顔がこう腫れっぽい感じがして、どうもその、気分が悪い。
その事を私はその神様に今日は一番にお詫びをさせて頂きました、好きなものの前には目がないと。大酒大食は絶食の元になるぞというように、厳しゅう教えておったもののうえに。食べ物の上になら食べ物の上にでも、そういう教えを頂いておる私がです。いわゆる大酒をし大食をしておったおる訳なんです。そこには今日の御用に差し支えると言う事はございませんに致しましても。
清々しいとか有り難いと言うようなものとは、よほどにこう縁の遠い心身体の状態で、お取次ぎしなければならんという事は、相すまんことであったなあと思うてから、詫びさせていただきましたら、神様からですねこの位ばっかりの、一握りぐらいのシンギクの花を頂きました。まああれはシンギクの花というのは、今頃咲くのですかねあれは。四月八日のお釈迦様の時に、こんなふうにしますあの花ですよね。
いわゆるあのお野菜、いわゆる食べるお野菜に咲く花なんです。菊は菊でも、いわば食べる菊なんですシンギクとは。ここでは菊というのは椛目の信心の、まあシンボルのように、みんなが大事に致します。心の中に咲く花は、菊の花のようでなからなければならない。香りも良い形も良い喜びが喜び久しいと書いて。心の中に菊が香るような喜びをと、こういうのでございますけれどもです。
それはどこまでも信心の喜びである、食べる喜びではないのである。ね。例えばほんなら、その好きなお神酒にしろ好きな食べ物にしろ、私がいや若い時に私も踊りをやったり、三味線を弾いたりした過去がありますから、本当にそういう雰囲気がやっぱり好きなんです。はあ自分でその踊ったりなんたり致しませんに致しましてもです、それは見せて頂いただけでございましたけれどもです。
やっぱりそういう雰囲気が良いし、そこに居並んでおる連中も、まあ好きな連中好きな連中といや、可笑しいですけれどもまあその菊栄会の連中だもんですから、ついつい心を許してしまって、そして呑みすぎ食べ過ぎさせていただいてから、今日はどっこい心の胃の中にもたれたような、何とはなしに身体全体にいわゆる、なるほど大酒大食は絶食の元になるなというような御無礼が出来てしもうた。
心の中咲く花はそれこそ菊の花ではなくて、シンギクの花のような状態である。ねきちっとこの神様はですね、好きな酒は飲んではならんぞと。お前の好きな踊りは見ちゃならんぞと。そう言う事にはならなくても、けどもそれに乗らないというようなこと、見境がつかんようになると言う事はいけない。まそこで私がですたい一歩そこに踏みとどまらせて頂けれるというか、信心に私はならして頂いておったら、ね。
適量のお神酒を、適量な好きな食べ物を、頂いたに違いはないのですけれども、もうそこんところは、自分の信心で考えるという事をしていなかった。ね。それこそ好きなものの前に知恵も無くなりゃ、しわもなくなるとまではいかんに致しましても、そういう一事が万事がそうなんです。人間のまあいうなら弱さといや弱さである。それはそれだけで留まればいいのです。
そしてまたその事を霊神様にもお届けをさせてもらって、お詫びをさせて頂くことをお願いさせて頂きよりましたら、あの、大きなおイサミでございましたですね。そしてそこで、また頂きました事なんですけれどもですね。例えば好きなものの前にでもですね、ブレーキがかかるだけの信心を頂いておきませんとです。今度はね。言うなら強い私共の人生の上に風が吹いたり、雨が降ったりという時です。
いうなら吹き倒されはせんだろうかというような時にです、それをどっこいとこう、ここに踏ん張って、その倒れんですむおかげを頂く時にです、の、力を養うことは出来ないと仰る。ね。風が吹いても倒れんですむと、平気でおれれるというおかげを頂くためにはです。好きなものの前でも、平気でおれれるというくらいな心を作っておかなければいけないという事なんです。
そこを頂かせて頂いてからこらぁほんとに、これからはそこんところに取り組んで修行せんといけないなと思いました。ね。好きなものの前にでもです、いわば平然としておれれると普通でおれれると言う事。ね。食べちゃいかんじゃない。けどもそこには例えば食べ物であるならば、腹八分なら腹八分のところで止められるだけの修養と申しましょうか、ね。力を頂いておきませんとです、今度は風の吹いてきたときね。
難儀難儀なときこそ難儀に耐え得るだけの力が、養われるためにはそういう修行が必要であるということを頂きました。そしてなるほどそうであろうと自分で思いました。ね。皆さんですから好きなものの前に立ったときには、一応生神金光大神天地金の神をと、目指していただいて、ね。現在好きなものが目の前に現れておりますと、どうぞ過ぎませんように見境がつかんようなことになりませんようにと、ね。
頂くのは頂きましても、どうぞ腹八分でこれは食べ物だけの事じゃございませんよ。一事が万事そうなのです。自分の好きなものの前に立ったときにです、それだけの私はゆとりというものを持たせて頂かなければならないという事でございます。ね。そこに腹八分的なところに、踏ん張って辛抱することができれる。そういう修行こそがです愈々、今風が吹いてきたと言った様な。愈々例えば難儀に直面した時に。
その難儀を受け応えられるだけの力が、そういう風にして養われていくという事もあるのです。ま言うなら私の失敗の巻でございますけれども失敗をさせて頂いてから、今朝からその様な事を頂くのです。皆さん信心の稽古をするという事は、そう言う様な事じゃないでしょうかね。日々の中にねもう一つと言う所に手を引っ込ませれるだけの、いわば力をですね鍛えておかなければなりません。
ブレーキが効かん様になっちゃ駄目です。ねそこん所をしだごだにする様な事になりますとです、愈々の時におかげがしだごだになってしまうでしょう。人間ですから失敗する事もございますけれども、その失敗は、必ず次のおかげを頂く元。良い失敗はより良い成功の元にして行かなければならんのです。そこに信心の在る者と無い者のあり方が、今ひとつ違うて来るわけなんです。
好きなものの前には目が無い。これが人間の弱さなんですけれども、ね。そこんところに、私は目を開かせてもらうことが、信心だというふうに思うですね。それを食べ物の上では、教祖は大酒大食は絶食の元になるぞと言うてある。ただ好きなものを食べ過ぎたためにです、ね。それが、絶食の元にでもなったら、ね。それが命に係わるような事になったらどうするか。好きな人が出来たために心中までしたという人がありましょうが、ね。命まで落とさなければならない様な事になってくるのですよね。
どうぞ。